サーカスの揺籃期にあたる明治35年(1902年)、初代木下唯助は勇躍大陸に進出。大連で旗揚げした。その後奉天、ハルピン、ハバロフスキー、ニコラエフスクなどの沿海州方面を巡業していたが、その途中で、日露戦争にぶつかったため、領事館の尽力をえて、ウラジオストックから敦賀経由で帰国する。
唯助が興行を行った土地ではいずれも大当たりをするが、その当時の流行りの芸をいち早く取り入れる興行師としての手腕にあった。中国からロシアにまで足を伸ばす中で、ロシアのサーカスを見学し、空中ブランコを習得したと語り継がれている。自分の目で何度も確かめ、ブランコの高さや飛距離、飛び手の技術をしっかりと脳裏に刻みこみ、遂にプログラムに取り入れた。木下の空中ブランコがかつて「ロシア飛び」と呼ばれており、今もフィナーレを飾る木下サーカスの専売特許の曲芸となっている。
大正時代は象や熊なども加えて発展した。特に、昭和の初めには、馬の“金馬”と象の“若玉”が大当たりで、記念に同名の映画館を岡山市の繁華街、千日前に設けたほどである。
戦時中も公演は続いたが、昭和18年(1943年)9月、鳥取で震災に遭い、行治・団長代理をはじめ、女性団員6名が死亡する悲運に見舞われた。しかし、テントを罹災者の避難場所に提供して救援活動にあたり、同地に木下の名を刻んだ。また、昭和28年(1953年)5月、出雲大社が火災になったとき、団員が消火作業で大活躍し、当時の文化財保護委員会から感謝状を贈られた。
動物をこよなく愛し、名調教師と呼ばれた初代唯助は、岡山を本拠に、各地のタカマチと称される祭礼の場を追い、木下サーカスの100年の基盤を築き上げ、サーカス・映画興行界に木下の名を刻んだ。
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