曲馬団の創業と映画館の開館
木下サーカスのルーツは、曲馬団の創業よりさらに古く、木下藤十郎が明治10年に岡山市西中島に旭座を開設したところから始まる。この藤十郎に見込まれた唯助(明治15年1月7日生まれ)が木下家に養子入りして、明治35年、大連で曲馬団を創業したのである。
旗あげして意気盛んな頃の初代唯助
(明治44年・1911)
大正期の絵葉書
(大正6年・1917)
(資料提供)三好 一氏
金馬館落成式 (大正8年・1919)
記念のフロシキ
映画常設館 岡山・金馬館
映画館の開館で、基礎を固めた木下サーカスは、折からの外国サーカス団の来日で、影響を受けてこの頃「東洋のハーゲンベック」を名乗る。象、アシカなど動物の曲芸に力を注ぎ、唯助の弟、行治が団長代理として指揮を取り、戦争の最中にも、各地で興業を続けていた。
「維新の京洛」上映中の岡山・若玉館
(昭和3年・1928)
人と車でごったがえすサーカス館前
(昭和10年・1935)
象が人気の萩史蹟産業博会場内のサーカス館
(昭和10年・1935)
北白川宮を囲んでの記念撮影、後列左から4番目が唯助 (昭和15年・1940)
「紀元二千六百年奉祝会」で天皇陛下御陪食の栄にあずかる唯助 (昭和15年・1940)
岡山・池田動物園開演に参列した唯助、前列中央に池田隆政・厚子ご夫妻 (昭和28年・1953)
光三、サーカス経営の近代化
戦後復員した木下光三は、まず映画館の経営を引き継ぎ、次いでサーカス団の経営を唯助から受け継いだ。戦後の混乱期にもかかわらず昭和25年にハワイで公演。以降海外公演の度々の実現と、演出の近代化、新聞社とのタイアップなど経営の近代化に存分の腕を奮った。
木下光三2代目襲名 (昭和23年・1948)
昭和50年頃撮影
タイ国際航空で飛んだ、バンコク公演
(昭和27年・1952)
森永ミルクキャラメルの看板があがる岡山公演
(昭和29年・1954)
岡山東山電停前での公演、チンパンジーと遊ぶ幼年時代の唯志社長 (昭和29年・1954)
東京後楽園アイスパレス (昭和30年・1955)
スズキ社内報に紹介された
木下大サーカス (昭和47年・1972)
後楽園公演
(昭和51年・1976)
光宣・唯志が新世紀を目指す
テレビの普及に呼応して、サーカスが持つナマの魅力を訴求するいっぽう、舞台のショーアップに努めた。博覧会への参加や欧米のサーカス事情の視察など、新しい時代を引き継いだ光宣・唯志の木下ブラザーズの絶えざる可能性への挑戦が舞台を魅力あるものにしてきた。
モンテカルロ国際フェスティバルを訪ねた光宣前社長(昭和63年・1988)
木下社長、臼井専務、ブグリオン・サーカス(仏)を訪問 (昭和49年・1974)
広い会場が観客であふれる正月の後楽園公演
(昭和51年・1976)
東京後楽園球場で開かれた木下大サーカス
(昭和51年・1976)
大阪なんば球場でのアシカショー (昭和52年・1977)
(調教:木下嘉津子・木下嘉子)
新潟公演 (平成9年・1997)
神戸博ポートピア公演
6カ月で160万人という空前の動員!
神戸博ポートピアで大観衆を集めたサーカステント
(昭和56年・1981)
ポートピアサーカスで名人芸を披露するウォーリー臼井
(昭和56年・1981)
久保田一美(左)、久保田勝行(右)
(昭和56年・1981)
アメリカン猛獣ショーの1ページ
(昭和56年・1981)
サンドリーヌ・ラブリー&ジョン・イリグによる猛獣ショー
2001年、 新世紀を迎え、木下サーカスの将来に繋がるショーとして確立される。
サンドリーヌ・ラブリー調教師(平成13年・2001)